1961年から1975年にかけて北ベトナム(以下北越)が行った非正規部隊(以下ベトコン)によるテロやゲリラ戦は恐るべき効果をもたらした。
具体的には、南ベトナム(以下南越)南部に対する北越のゲリラ活動は軍隊だけでなく、住民とりわけ農民に対しても行われ、彼らを恐怖のどん底に陥れただけでなく南越全域にわたり治安の不安定化を常態化させることに成功したのである。
更に都市部においても爆弾テロや要人襲撃などを果敢に行い、下は地方の農民から上は政府要人に至るまで常に恐怖の揺さぶりをかけたのである。
このため戦争の全期間を通じ、アメリカ軍や南越政府軍はかなりの部隊を南越中部以南に拘置せざるを得ず、前線では常に兵力の不足と大規模な戦闘を長期間行う事が出来なかったのである。
では、北越がこの様な非正規戦を大胆かつ広範囲に、しかも終戦までの間仕掛けられたのはなぜか。
それは二本の兵站線、ホーチミンルートとシアヌークルートの存在である。
ホーチミンルートとは北越からラオス、カンボジアの国境線を抜けて南越南部~サイゴン近辺に至るベトコンの陸の補給路である。一方シアヌークルートとは、北越から海上を経てサイゴン南部のメコンデルタ(後にカンボジア南部へ移動)~サイゴン近辺に至るまでの言わば海上輸送ルートである。
特に前者は単なる補給路ではなく弾薬物資の集積所や病院、各種施設を備えた言わば線条の前線基地であった。
双方の輸送量は戦争の全期間を通じて6:4の割合だったと言われる。
北越ではこの二本の大動脈を戦争初期から整備しており、ベトナム沿岸部を主戦場とする北越正規軍の助攻役として、ベトコン部隊の南部への展開を進めていた。
一方アメリカ軍や南越政府軍でもその存在に気付き、これを潰すべく戦争の全期間を通じて大規模な空爆や、70年代に行われたラオス・カンボジアへの越境攻勢などを行って潰しにかかった。
しかしアンナン山脈の山岳地帯、鬱蒼と茂るジャングルはこうした空爆の効果を最小限に止どめた。更に北越の土木修復力は人海戦術を使って短時間で破損を回復をさせる事が出来た。更にラオス・カンボジアへの作戦は国内世論の反感から至極短期間でしか行えなかった。
こうしたことから北越はベトコンへルートから無尽蔵に物資を補給し、部隊が消耗すればルート付近で再編するなどして、自由気ままに南越全域を攻撃出来たのである。
文字通り勝利への道であった。
【追記】
ホーチミンルートが頻繁に空爆や陸上からの攻撃に晒されていたのに対し、驚く事に海上輸送メインのシアヌークルートはそこまで攻撃を受けなかった様だ。
それはベトナム中部沖に第七艦隊を常時貼り付けていたアメリカの(まさか…)の心理の裏を見事にかいた作戦だったのだ。
しかし後に陸揚げ場所をメコンデルタ地区からカンボジア南部へ移さねばならなかったのはさすがにアメリカの河川警備部隊が効果を発揮していたためである。
更にアメリカ軍のカンボジア侵攻の目標の一つには、こうした輸送路を押さえることであったから、北ベトナムとしても、ここに60年代後半からアメリカ軍に長期間居座り続けられていたら相当困ったはずである。
結果は同じであれ、戦争は長期化していたことは間違いないだろう。
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